喉仏は、Adam's appleではない [首人間]
昨日、親戚の葬儀へ出席しました。
私は浄土真宗本願寺派で育ち、当然その様式での葬儀でした。。
自宅での葬儀にその住職と副住職が訪れお経と説教を説かれます。
宗祖親鸞聖人の生き方、大変興味深いお話であり、
この宗教についてもう少し詳しく知りたくなりました。
そして、斎場へ移動。
最後のお別れを済まし、火葬へ。
2時間後、「拾骨」「骨上げ」「収骨」とどれが正しいのか解からないが、一般的な習俗としては遺骨を二人が組みになって下半身から順に上に向かって拾い、骨壷に収めます。この作業を「箸渡し」といいます。
地域や宗派によって箸渡しのやり方も様々なのですが、
食事中に箸渡しをするなというのは、これが「箸渡し」の本意だからです。
そして、最後に「喉仏」を骨壷に入れます。
合掌している仏様の形をした骨です。
一般的に喉仏とは男性のアレを想像しますが、その喉仏は喉頭隆起(こうとうりゅうき)といい、喉の中間にある甲状軟骨の突起した部分でところで靭帯と筋肉によって結合された軟骨の枠内に固定されているため、実際にはこれは火葬の際に溶けるため第二頸骨の部分を「喉仏」として扱います。実際そのような形をしており、男性女性ともにある骨です。
今回は残念ながら高齢の為か、喉仏は崩れてしまっていました。
故人のご冥福をお祈り申し上げます。
喉仏が本来は首に宿るならば、首人間は正しい考え方なのではないか?と
ますます勘違いした一日であったw
死ぬために生きていこう。 [首人間]
「40歳までには死ぬ」
と、言い切って生きてきました。
漠然とですが、死に対するイメージがある気がしてます。
私に場合、小学校1年の夏休みに父が亡くなりました。
癌でした。
入院生活から、本人の希望で家に帰りたいという意思を尊重して、
自宅療養から2、3日後だったと思います。
母も家に帰るということで、死を覚悟したと言ってました。
父の最期は、外が見たいという言葉であったことを今でも覚えてます。
傍で母が窓を開けるとこの家から出て行ってしまうと泣いていました。
当時6歳の自分にはよくわからなかったのですが、親戚とかたくさんの人が集まっていることが
楽しいだけでした。
そして、父は亡くなりました。8月25日42歳でした。
翌日、私はそのことを夏休みの課題で絵日記に記しています。
悲しいとも寂しいともそこに感情はなく、事実を綴っていました。
そのことで学校の先生は心配して精神面の検査と今風に言えばカウンセリングを
薦めたそうです。
その後、親戚などがなくなり、最愛の祖母がなくなったのが、高校1年になったばかりの春でした。
いわゆるおばあちゃん子だったので、中学生ぐらいまではいつも一緒にいた記憶があります。
しかし、90歳を越えて「痴呆」という状態になりました。
でも、私が会いに行けばちゃんと理解してくれていると思ってました。
その祖母も深夜に徘徊して、川に転落し水死しました。
その翌年には祖母の介護をしていた叔母もなくなりました。
私は死に直面したときに、泣けません。
もう会えないと思う気持ちは寂しさを感じますが、本人にとっては悲しいことでも
寂しいことでもないと思うからです。
死ぬことは悪いことではない。
自分自身でも死ぬかもしれない!と思うような経験は何度かありますが、
それは「かも?」なので、死ぬという経験はないのだと思います。
実際、死なないとわからない。
しかしながら、現在は死なない=寿命を延ばすということが普通になってまして、
いづれ死ぬということを避けていこうという考え方が是となっていると思っています。
しかし、必ず、死ぬ時は訪れる。
人間として当たり前であること。
自殺する人、死にたいと思う人の気持ちは、その人なりに生きた証かもしれない。
まだ、死にたくないと思うのは今の自分に未練があるから。
若いうちに死ねるように生きる。
首1 [首人間]
首人間(くびにんげん、クビニンゲン?)
くび【首・×頸】
1 脊椎動物の頭と胴をつないでいる部分。頸部(けいぶ)。
2 1の上の部分全体。あたま。かしら。こうべ。「―をかしげる」
3 1に似た形。また、それに該当する部分。「びんの―」
4 衣服の1にあたる部分。襟。「セーターの―」
5 (「馘」とも書く)職をやめさせること。解雇。馘首(かくしゆ)。「お前は―だ」
6 顔。特に美しい顔。また、美人。
「かかる所には看板の―といふものありて」〈洒・浪花色八卦〉
にん‐げん【人間】
1 ひと。人類。「―の歴史」
2 人柄。また、人格。人物。「―がいい」「―ができている」
3 人の住む世界。人間界。世の中。じんかん。
「―五十年下天のうちをくらぶれば」〈幸若・敦盛〉
引用:大辞泉
くびにんげんって何?という疑問から咀嚼説明していこうと思います。
私自身の物心が付くか付かないかギリギリの幼少時代にふと思いついたのが、この首人間説です。
「人間はこのままだと首人間になってしまう!」という得たいの知れない恐怖に襲われました。
3日寝込みました。いや、実際は寝込んでませんが、それぐらいのイメージです。
そのようなバカげたことを思うようになった背景には、今思うと育った環境などの影響により1人で遊ぶ子だったのは間違いありません。
脳が吸収率の高い時代に、いろんなことを1人で考える癖が付いてしまいました。
首人間以外にもいろんな訳のわからんことを考えては、周りの大人に話をして困らせていたようです。
死後の世界とか、なぜ指は5本なのか、男と女の必要性とか、言語の意味とかとか、・・・・。
まあ、子供だったらよくあることです。
そして、20余年経過した今でも揺るぎ無い根拠の無い自信あるのが、この首人間説です。
将来的に、人は手足はもとより臓器を含めた体を不要と考えることになるでしょう。
バリアフリーとかそういう次元じゃなくて、脳と五感をかじることだけで充分に人間らしさを維持できると思います。
ヴィジュアル的にはキモイものですが、首(正確には頭だけ)で浮遊する世界をイメージしてます。
子孫繁栄のための生殖器は残りますので、ご安心を。
手足が無くなり不便になると思われるかもしれませんが、そのことにはそれを補う道具が確立してますので、人間が何かをするって行為自体がなくなります。
脳と五感で生きていく。
そんな世界ですね。
続く。
アシモには何の責任もありません。






